湖底の囁き
深い森に囲まれた小さな村には、静かな湖があった。その湖のほとりには、古びた小屋がひっそりと佇んでいる。この小屋は、村人たちにとって忌まわしい場所だとされていた。数年前、ここで起きた事件が未解決のまま、人々の心に恐怖を植え付けていたからだ。
その日、村に新しい住人が引っ越してきた。彼の名は佐藤。中年の男で、都市喧騒に疲れた彼は、静かな村での生活を求めていた。しかし、異郷の村が彼を受け入れることはなかった。人々は彼を警戒し、視線を避けた。特に、その湖の近くに住んでいた村の若者たちは、彼を嫌悪の目で見つめていた。
ある晩、佐藤は湖のほとりを散歩していた。夜空には無数の星が輝き、月明かりが湖面を照らしていた。その美しさに感動した彼は、ふと小屋の方に目を向けた。古びた小屋から、不気味な影が見えてきたように思えた。彼は好奇心に駆られ、小屋の方に歩み寄った。
近づくにつれて、小屋から漏れる低い声を聞いた。「助けて…」その声に耳を澄ませると、何者かが囁いているのが分かった。心臓が高鳴り、恐怖が体を包み込む。彼は小屋のドアを押し開けた。中には誰もおらず、物が散乱していた。不気味な静寂が辺りを支配する。
その瞬間、背後から冷たい風が吹き抜け、扉が大きな音を立てて閉まり、彼は思わず悲鳴を上げた。全身が震え、逃げ出さなければという気持ちが彼を襲った。しかし、彼は何かが真実を求めているような気がして、しばらくその場に留まった。
しばらくすると、小屋の中の一角に目が留まった。床の隙間に何かが埋もれているように見えた。膝をつき、目を凝らすと、それは古い日記だった。日記を手に取って読み始めると、過去の恐ろしい出来事が綴られていた。数年前、この小屋で若者が失踪したこと、その若者の親友が最後に目撃された場所がこの湖だったこと、そしてそれ以降彼が見つからなかったこと。
佐藤の胸に恐怖が広がった。彼は日記を持って小屋を出ようとしたとき、再び声が聞こえた。「そこにいるの?助けて…」その声は、まるで失踪した若者の声のように思えた。彼は悩んだ末、声の主を助けることを決心した。
村に戻ると、彼は友人を探した。村人たちに過去の事件を聞いて回ったが、誰も彼を信じようとしなかった。町の人々は皆、あの失踪事件について口を閉ざしていた。ついに、年配の女性が佐藤に耳を傾け、「あの小さな小屋には、行かない方がいい」と警告した。その言葉を振り払うように、彼は再び小屋を訪れることにした。
今度は、準備を整えて彼は小屋に再入る。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、彼は湖の近くで再び声がするのを待っていた。すると、ぼんやりとした影が湖面に映し出された。佐藤は一瞬考えを巡らせた。自分が見たものは何なのか、またあの声は本当に誰のものなのか。
その時、影が動き、そして声が聞こえた。「助けて、ここから出して…」その声は、あの失踪した若者のものだった。彼は決心した。湖に飛び込み、声の主を探し出すのだ。
佐藤は水をかき分け、奥に進んでいった。水中の視界は真っ暗だが、声はますます大きくなっていく。ついに、彼は何かに手を触れた。引き上げると、それは重い物体だった。若者の遺体だった。心が締め付けられる思いで彼は水面に浮上した。
その瞬間、背後から冷たい風を感じ、振り返ると、何かが彼を抑えつけていた。恐怖に駆られたまま、彼は最後まで力を振り絞って叫んだ。「助けて!誰か助けて!」周囲には何も見えない。ただ深い森と静寂が彼を包み込んでいた。
やがて、目の前の光景がぼやけていった。湖の底で自分自身が沈んでいく感覚。しかし、彼は心の中で悟った。真実を知ることで、彼自身も呪われる運命にあるのだと。
村に残った人々は、また一人失踪した者の噂を立てながら、佐藤のことを忘れていった。しかし、湖の底では、過去と現在が交錯し、まだ誰かの声が助けを求めているのかもしれない。佐藤は永遠にその湖の中で、真実を抱えたまま沈んでいったのだ。