疑問の旅路
夜の静寂に包まれた部屋で、一人の男性が古ぼけた机に向かっていた。黒のペンを握り、白い紙に向かってその日のできごとを綴る。彼の名は安藤直哉、年齢は50歳を少し超えたところ。鏡を見上げると、疲れが表れた顔とともに、白髪が増えたことに気付く。
安藤は30年以上教師として働いてきた。無数の生徒たちに囲まれ、彼らの成長を見守り、導いてきた。しかし今、机に向かっている彼の心は複雑だった。教え子たちが立派に成長していく一方で、安藤自身の心が何かに囚われていることを感じていた。
日記に綴る言葉は、彼の日常の一部ではあるが、もっと深いところにある心の内を隠すことが多い。最近、夜になると心に浮かぶのは、教師になる前の若き日のことだ。
安藤が大学に通っていた20代。彼は心理学を専攻していた。その頃の彼はやんちゃな性格で、友人たちと夜通し飲み明かす日々を送っていた。しかし、ある出来事が彼の人生を変えることになった。
ある冬の夜、友人たちと飲み明かしたあと、彼は一人で暗い道を歩いていた。凍った道を歩いていると、小さな電灯の下に、一人の少女が座り込んでいた。彼女は泣いているようだった。安藤は誘惑に負け、足を止めることにした。
「どうしたんだ?」と彼はその少女に声を掛けた。顔を上げた少女の眼は涙で濡れていた。名前は麻美、14歳。家に帰れないという。安藤は飲んでいたが、そのときは少しでも役に立てるならと考え、彼女を家まで送ることにした。
家に着くと、彼女の母親が怒鳴り込んできた。「どこに行ってたの!」母親の声が耳を突いた。麻美は何も答えず、ただ母親の足元に倒れ込んだ。明らかに家庭内で何か問題があることを感じた安藤は、その場を立ち去ることができなかった。
その日のことがきっかけで、安藤は麻美と頻繁に会うようになった。彼は心理学の知識を駆使し、彼女の心の内を探ろうとした。そして、数ヶ月かけて麻美の家庭環境がどれほど虐待的であるかを理解した。彼女の母親はアルコール依存症であり、毎晩のように暴力を振るっていた。
安藤は一度、麻美の母親と直接対話しようと試みたが失敗した。暴力は収まらず、麻美の心はますます壊れていった。その頃、安藤は自分の無力さを痛感した。
ある夜、彼が麻美と話をしていたとき、彼女は静かに、でも決然として言った。「もう、耐えることができない。逃げたいけど、逃げ場がない」その言葉を聞いた安藤は、何か行動に移さなければと思った。
彼は麻美を一晩自分のアパートに泊め、その翌日、彼女を児童相談所に連れて行った。相談所の担当者に事の経緯を説明すると、ようやく麻美は保護され、適切な施設で生活を再スタートさせることができた。
麻美との出来事が、安藤に教師を目指すきっかけを与えた。彼は自分が人の心に寄り添える存在でありたいと強く願うようになった。そしてその思いが、今の彼を形作った。
しかし、30年の歳月が過ぎた今、安藤は再び心の中で葛藤していた。教え子たちの成長を見ることは喜びであったが、自分自身の夢や希望は、本当に達せられているのかという疑問が湧いてきた。あの時の麻美のように、もっと多くの子供たちの心に寄り添うべきではないか?日常の忙しさに追われ、自分が失ってしまったものは何か?
そんな疑問が日々胸を締め付ける。
やがて、安藤は決心した。彼が本当にやりたいこと、自分の本質に戻るために必要なことを見つけるための旅に出ることだった。生徒たちは愛するが、自分の心を無視している限り、真の支援者にはなれないと感じたのだ。
彼はペンを置き、立ち上がった。明日の朝、校長に辞表を提出することを決意した。新しい旅の始まり、その一歩は恐怖と期待の入り混じる感情に包まれていたが、それでも道のりを信じて進むしかなかった。
安藤直哉の新たな章が、ここから始まる。