仮想世界の孤独

夜の静寂が都会の喧騒を包み込む中、若い評論家・佐藤智也は、自身の書斎で一本の原稿に没頭していた。彼の最新の評論は「現代の孤独とSNS」というテーマで、世間の注目を集めることを目指していたが、その執筆は思いのほか順調ではなかった。


佐藤はパソコンの画面を見つめながら、現代社会に生きる私たちがどれだけ孤独を感じているのか、そしてそれがどうSNSと関係しているのかを考えていた。彼自身、数年前まではSNSを全く利用していなかったが、友人に勧められる形でTwitterとInstagramを始め、その中で多くの人々が孤独感を吐露していることに気づいたのだ。


書斎の隅にある本棚に目をやると、古びた哲学書や社会学の書物がぎっしりと詰まっている。その中でも彼の目を引いたのは、ジル・リポヴェッツキの『ポストモダンの条件』であった。そのページをめくりながら、彼は「ポストモダンの自己」という概念に触れていた。リポヴェッツキによれば、ポストモダンの時代において自己は多面的であり、固定されたアイデンティティはもはや存在しないという。


「では、この多面的な自己が果たしてSNSでどう表現されるのか?」佐藤は自問した。スクリーン越しの人間関係は本物なのか、それとも仮想現実の中で自己満足を得るための一時的なものでしかないのか。


その時、佐藤はスマホの画面を確認した。驚くべきことに、彼のフォロワー数はまた増えていた。彼が最新の投稿で取り上げた記事、「孤独のデジタル化」がバズっていたのである。その記事では、データ科学者のインタビューに基づき、SNSのアルゴリズムが孤独感を助長するという研究結果を引用していた。この研究によれば、SNSのアルゴリズムはユーザーが見たいと思う情報に基づいてフィードをカスタマイズし、結果として同じような認識や趣味を持つ人々とのみ交流することになる。その結果、異なる意見や新しい視点に触れる機会が減り、「蚊帳の外に置かれた」ような感覚に陥りやすくなるというのだ。


「全ては自己満足のためなのだろうか?」佐藤はふと思った。彼の友人である田中もSNS中毒に近い状態であり、毎日のように自己の生活を投稿していた。完璧な写真、綺麗に編集された動画、そして「いいね」の数によって自己価値を評価するようになっていた田中の姿は、現代の若者たちにとっては決して珍しいものではなかった。


フィードの更新を繰り返していると、佐藤は一つの投稿に目を留める。それは田中の投稿で、「リアルな友達がいない。SNSだけが僕を救ってくれる」という内容が書かれていた。田中はもともと内向的な性格で、新しい友人を作るのが苦手だった。しかし、SNSでは異なる。趣味や関心が一致する人々と簡単に繋がることができ、それが彼にとって一種の癒しになっていたのである。


「これは一体何を意味するのか?」佐藤は疑問に思った。SNSは果たして孤独を癒すのか、それとも孤独を助長するのか。彼の目の前にあるパソコンの画面に戻り、彼は再びキーボードを叩き始めた。自身の経験と観察をもとに、論理的な思考を組み立て、新たな結論にたどり着こうとした。


彼が書いた一文はこうだった。


「SNSは現代の鏡である。私たちの孤独と過度な自己表現は同時に進行し、互いに影響し合う。SNSは私たちに一つの仮想的な共同体を提供するが、その裏には自己満足や他人への依存が存在する。孤独は消えず、ただ形を変えただけなのだ。」


こうして佐藤は原稿を完成させた。しかし、その過程で彼は一つの重要な気づきを得た。現代の孤独とは、単に物理的な孤立ではなく、心理的な断絶と関係性の薄まりを意味するものであり、それがSNSの台頭によってより顕著になっているということだ。


佐藤はパソコンを閉じ、考え深い顔で書斎の窓から夜空を見上げた。そこには、都会の夜景が広がり、数えきれないほどの光が輝いていた。しかし、その光の多くは人工的なものであり、同様に私たちの人間関係もまた、SNSによって形成される仮想的なものに過ぎないのかもしれない。


彼は自問する。「現代の孤独は解消されるのだろうか?」そして、彼はその答えを知っているかのように静かに微笑んだ。


現代の我々が抱える孤独の本質を明らかにするにはまだまだ時間がかかるだろう。しかし、重要なのはその問題に向き合い、真実を見つけ出す勇気を持つことである。佐藤はその一歩を踏み出したばかりだった。