明日への一歩

 陽射しが穏やかに机の上を撫でる、静かな午後の教室。放課後の時間、部活動に向かう生徒たちのざわめきが少し遠くから聞こえてくる。


 緑川優は、数学のノートを開いたままぼんやりと窓の外を眺めていた。目の前には、校庭で友達と楽しそうに談笑する彼の姿があったが、彼の心は遠くにあった。優はいつも、そんな風に自分の思考の迷宮に迷い込んでしまう。


 「緑川、まだ帰らないの?」


 急に耳元に聞こえた声に、優はドキリとした。振り向くと、そこには桜井美咲が立っていた。美咲はその大きな瞳で優を真っ直ぐに見つめていた。


 「もう少しで終わるから、大丈夫だよ。」


 優はそう答えたが、内心は急かされるような気持ちだった。美咲はその場でしばらく優を見つめ、ふと笑った。


 「なら一緒に帰ろうか。待ってるよ。」


 彼女の言葉に、優は感謝の気持ちを覚えた。いつも美咲は優を気にかけてくれる存在であり、その存在がどれほど支えになっているか計り知れなかった。それでも、優は彼女にその感謝を十分に伝えられていない気がして、少し罪悪感を抱いていた。


 優がノートを片付け終え、教室を出ると美咲が嬉しそうに手を振っていた。一緒に校庭を歩きながら、優は美咲の優しい横顔を無意識に見つめていた。何度もこの光景を見てきたが、いつも新鮮な気持ちになれるのだ。


 「ねえ、緑川。今日は何かあった?元気がないみたい。」


 美咲は優の手を握り締めた。その温かさに、優は一瞬立ち止まった。そう、彼女には何でも打ち明けられる。そんな気持ちが優の中でふくらんでいた。


 「今日はね、ちょっと考えることがあって……」


 一瞬言葉を詰まらせた後、優は続けた。


 「美咲、僕さ、最近自分が何をしたいのか分からなくなってきて……。勉強も、部活も全部なんだか意味がないように感じてしまって。」


 美咲は優の手をさらに強く握り締め、真剣な表情で彼を見つめた。


 「緑川、それは普通のことだと思うよ。私だって、たまにそう感じる時がある。でも、私たちはまだ若いし、これから色んなことを経験していくんだよ。」


 彼女の言葉に優は少し心が軽くなった気がした。美咲はいつも優のことを理解してくれる、そんな存在だ。


 「ありがとう、美咲。君がいてくれて本当に良かった。」


 美咲は微笑み、優の手を放した。そして、ふと空を見上げた。


 「緑川、覚えてる?小学生の時、よくこの校庭で遊んだよね。毎日のように一緒に走り回ってた。今はその頃と変わらない大切な時間だと思うよ。」


 優も空を見上げ、その時のことを思い出した。美咲と初めて出会ったのは、この校庭だった。彼女は転校生で、緊張している彼女に最初に声をかけたのが優だった。それからは毎日のように遊び、笑い合った。


 「そうだね。あの頃も今も、君と一緒にいる時間が僕にとって大切なんだ。」


 優の言葉に美咲はふわりと笑い、「私もそうだよ、緑川。だから、落ち込んだ時はいつでも私に話してね。私たち、友達だから。」


 幸せそうに笑う美咲の姿に、優は心から感謝した。彼女の存在がここまで自分を支えてくれたことを改めて感じたのだ。


 二人はしばらくの間、言葉を交わさずに歩き続けた。夕焼けが二人の影を長く伸ばし、優しいオレンジ色に染め上げた。


 「ねえ、美咲、最近考えてたことがもう一つあるんだ。」


 優がそう言うと、美咲は驚いたように優を見つめた。


 「何?教えて。」


 優は少し迷ったものの、意を決して口を開いた。


 「僕さ、君のことが好きなんだ。友達以上に、大切な存在だと感じてる。」


 美咲は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかい笑顔に戻った。


 「ありがとう、緑川。私も……君が大好きなんだよ。これからも、ずっと一緒にいようね。」


 優はその言葉に胸がいっぱいになった。美咲の愛情が、自分にとってどれほどかけがえのないものか、改めて感じたのだ。


 二人はそのまま手を繋ぎ、夕暮れの中を歩き続けた。心地よい風が二人の間を通り抜け、彼らの未来を明るく照らしていた。


 愛情とは、何も特別なことではない。日常の中でお互いを思いやる気持ちこそが、本当の愛情なのだと、優は美咲と一緒にいることで確信していた。


 この先、どんな困難が待ち受けていようとも、二人でなら乗り越えていける。そんな強い信念を胸に、彼らは未来へと足を踏み出した。


(終わり)