家族と共に

冷たい風が都会のビル群を縫うように吹き抜け、巨大なガラス窓がその音を増幅して室内に伝えてくる。オフィスの四十階にあるカフェから見下ろす都市の灯りは、近未来的な輝きを放っていた。ここから見えるのは輝かしい証券取引市場の本拠地。端末が並ぶカウンターテーブルには、夕食を手短に済ませるエリートたちが居並んでいた。


野島雅也は、最初のコーヒーを飲み干してから二杯目に取り掛かると、目の前のタブレット端末に再び視線を落とした。彼は繊維メーカーでマーケティングを担当している30代半ばのサラリーマンで、ここ数年は過労気味だ。大手通信社からのニュースフィードが次々と更新され、画面に流れてくる。「AI開発が急成長」「新しい金融システムの導入」など、現代社会を彩るニュースが流れていく。


しかし、雅也の目が留まったのはこれらのニュースではなかった。「家庭内暴力の増加」というタイトルが彼の心を捉えた。クリックして読み進めると、日常生活を追い詰められた人々が無意識のうちに家庭内でストレスを発散しているという記事だった。彼の脳裏に浮かんだのは、最近の妻である美咲との喧嘩だった。


先週の金曜日、雅也が仕事から帰宅すると、美咲が泣きながらキッチンに立っていた。二人はこの二か月間絶えず衝突していた。美咲は最近、パートタイムの仕事を辞めて再び家に戻ってきていたが、それが彼の仕事のストレスに拍車をかけていた。


「また遅かったのね。今日も家のことを全部任せてるわ」と美咲は涙ぐみながら言った。


雅也は、冷たい声で答えた。「俺の仕事がどれだけ忙しいか分かってるのか?そのぐらいのこと、家でできないと困るよ」


その後すぐに大きな喧嘩となり、声を荒げて言い合ううちに、雅也は自分自身に驚く程の怒りを感じた。カフカの『変身』を思い出させるように、自分が自分でなくなる瞬間が訪れるのだ。それでも、彼は自分に正当性があると思っていた。彼が外で稼ごうと必死に働いている間、美咲は家にいるのだから、と。


現代社会の競争が過酷であること。成功のためには自己犠牲も厭わないことが常識とされる社会。それが生む副作用について、彼は時折考えたが、直視するのは避けていた。現実逃避として彼は仕事に没頭し続けた。


タブレットの画面に戻ると、次の記事に「独居老人の孤立とその救済」というテーマが書かれている。雅也の心は再び沈んだ。かつて彼の祖父母も同じ孤独を感じていたのではないかと想像する。



駅の近くの小さな公園、週末の朝には近所の子供たちが遊ぶ音が響く。雅也は土曜日の朝、自らの生活を少し見直そうと決意し、その公園を訪れた。数名のボランティアが集まり、ホームレス支援の活動をしていた。それを見て、彼の心にふと何かが芽生えた。誰かを助けることが、自分にも力を与えると感じたのだ。


「こんにちは、何かお手伝いできることはありますか?」と雅也は一人のボランティアに声をかけた。


そのボランティアは軽く微笑み、「ええ、もちろんです。私たちは毎週ここで食事を提供しています。もしお手伝いいただけるなら、あちらのテーブルでお手伝いを」と答えた。


その肌寒い朝、雅也は初めてホームレスの人々と真摯に向き合った。彼ら一人一人にはそれぞれの物語があり、社会から取り残された理由もさまざまだった。中には、かつて彼のように家庭を持ち、安定した職に就いていた者もいた。


その日の夕方、雅也は家に帰り、美咲に向き合った。「美咲、今日は少し考える時間をもらったんだ。お前が言ってたこと、少し分かってきた気がするよ」


美咲は不思議そうな目で彼を見たが、やがて微笑み返した「どうしたの?急に優しくなって」


「ただ、自分の周りのこと、もっと理解しなきゃと思っただけさ」と雅也は答えた。


その夜、二人は久しぶりに穏やかな夕食を共にし、静かに交わす会話の中で、お互いを再び見つめ直すことができた。


現代社会の中で、自分を見失うことは簡単だ。しかし、少し立ち止まり、周りの人々と向き合うことで、新たな視点を持つことができる。雅也がこの日得た経験は、彼の人生を少しずつ、しかし確実に変えていくであろう。