風見鶏の約束
高層ビルが立ち並ぶ東京の街角に、静かな裏路地があった。ほどよく古びた喫茶店『風見鶏』は、その路地の奥でひっそりと営業している。この場所は高校生の玲奈と直樹にとって特別な場所だった。
玲奈は内気で、本を読むのが好きな少女だった。彼女はいつも教室の片隅で静かに本を読んでいた。直樹はそんな玲奈を見るたびに彼女の持つ独特の静謐さに心を引かれていた。彼女がどんな本を読んでいるのか、何を考えているのか知りたいと常々思っていた。
ある日、直樹は意を決して玲奈に声をかけた。「玲奈、もしよかったら、放課後に一緒に喫茶店に行かないか?」
玲奈は一瞬驚いた顔をしたが、やがて微笑んで「いいよ」と答えた。その約束が二人にとって新たな日常の始まりになった。
『風見鶏』の店内は、木製の家具とステンドグラスのランプが温かみを醸し出していた。二人は定番の窓際の席に座り、お互いに気軽な話題を交わすようになったが、それでも玲奈は本を手放さなかった。
「玲奈、何を読んでいるの?」直樹が尋ねた。
「これはね、村上春樹の『風の歌を聴け』。すごく感動するんだよ」と彼女は答え、目を輝かせた。
その日から、喫茶店での時間が二人の特別なものになった。玲奈は読んでいる本の内容を話し、直樹も時折、自分が読んだ本や見た映画の話をするようになった。そのうちに、二人は互いに貸し借りする本のリストを作り始めた。
ある晩、喫茶店が閉店する間近、玲奈はふと直樹に尋ねた。「直樹、将来の夢ってある?」
直樹は一瞬考えてから答えた。「将来は映画監督になりたい。自分の思い描くストーリーを映像にして、いろんな人に伝えたいんだ。」
玲奈はその言葉に興味を示し、「それって素敵な夢だね。」と言った。
玲奈も自分の夢を語った。「私はいつか、自分の小説を出版したいんだ。いまはまだ誰にも読ませたことがないけど、自分の思いを形にするのが夢なんだ。」
二人の夢は、どこかで交わりそうな気がしていた。その日以来、二人はますますお互いに励まし合う仲になった。
高校三年生の夏がやって来た。受験勉強に追われる中でも、二人は風見鶏での時間を大切にしていた。しかし、そんなある日、玲奈が急にこう言った。
「私、ちょっと話があるんだ。」
直樹は不安げに顔を上げた。「何かあった?」
「私、来年度からアメリカに留学することになったの。」
直樹は息をのんだ。信じられない思いが胸に広がり、言葉が出てこなかった。
「本当に急なことだけど、両親が決めたんだ。私も悩んだけど、作家としての夢を実現するにはいい機会だと思う。」
その日は、二人とも黙り込んだまま喫茶店を後にした。玲奈がいなくなる日が近づくたび、風見鶏の時間はより大切なものになっていった。
そして、ついに玲奈が出発する日がやって来た。空港のロビーで、二人は最後の別れを告げた。
「直樹、ありがとう。この一年間、あなたとの時間は本当に楽しかったよ。」玲奈は涙をこらえながら言った。
「玲奈、僕たちはこれで終わりじゃない。君が有名な作家になったら、僕の映画の脚本を一緒に書こう。」直樹は笑顔を見せたが、その眼には涙が浮かんでいた。
それから何年も経ったある日、直樹は映画監督として順調にキャリアを築いていた。ある夜、彼のデスクには一通の手紙が届いた。それは、玲奈からだった。彼女の初の小説が出版され、それが映画にできるのではないかと提案してきたのだ。
直樹は手紙を読み終わると、すぐに彼女に電話をかけた。「玲奈、やっと夢が叶ったね。僕たち、また一緒に夢を追いかけよう。」
人生には、青春の一瞬が色あせることなく心に残るということを、二人は改めて感じた。東京の喫茶店『風見鶏』で始まった物語は、今、新たな章へと進み出していた。