時の彼方の書店
駅の改札を抜けると、初夏の陽射しが顔を撫でた。私は今日も同じ道を歩き、同じ電車に乗り込む。通勤ラッシュの中で無意識に確保したいつもの座席に腰を下ろし、本を開く。ところが、文字は一向に頭に入ってこない。電車の窓外に目を移すと、流れる風景の中に、ふと見慣れたものが混じっていた。
それは毎朝見かける小さな古書店、「時の彼方」だった。目立たない店舗ではあるが、その店名が私の心に何かを訴えるようで、気にはなっていた。今日こそ、帰りにでも訪れてみよう。そんな小さな決意を胸に、私は再び仕事に向かった。
一日が過ぎ去り、疲れた体を引きずりながら駅に戻ると、古書店の看板が私の目に飛び込んできた。店のドアを開けると、小さなベルの音が心地よく耳に響いた。店内は薄暗く、棚には古びた本がびっしりと並んでいる。店主らしき高齢の男性が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい、初めてですね。この店は古い本ばかりですが興味がありますか?」
「ええ、少し古い本に触れてみたくて。」
「それなら、こちらの棚がおすすめです。特にこの一冊、『時の彼方』という本は見逃しませんように。」
本のタイトルを聞いた瞬間、まるで運命のようなものを感じた。その書名はまさにこの店の名前と一致する。一体どんな内容なのか、興味が湧いて仕方がない。私はその分厚い本を手に取り、ページをめくった。すると、時間を遡るように古びた街写真が幾つも挟まれていた。
「この本は物語だけじゃなくて、過去の記憶も詰まっています。」
店主の言葉に、私は深く頷いた。ページを開いていくうちに、不思議な感覚が押し寄せてきた。まるでその一ページ一ページが、私自身の記憶とリンクしているかのように。
時は子供時代の思い出。小学校の校庭、家族旅行、夜店で買った金魚。ページを捲るたびに、過去の記憶が鮮やかに蘇る。そして、ふいに目に飛び込んできたのは祖父母の家の中庭だった。あの懐かしい風景が、まるで今目の前にあるかのように鮮烈だった。
「驚いたでしょう。これが、この本の魔法なんです。」
店主の柔らかな笑顔に、私は微笑み返す。どれだけ忘れていた記憶でも、この本を開けばまた巡り会える。そんな不思議な力があると感じにくくもなかった。
その本が忘れていた大切な人との時間を、私に取り戻させてくれた瞬間、店の奥から少女の声が響いた。彼女は白いワンピースを纏い、無邪気な笑顔で私に近づいてきた。
「その本、面白い?」
「ああ、とても不思議で魅力的だよ。」
「おじいちゃんが作ったの。この店に来る人に、少しでも幸せを感じてもらいたくて。」
少女の言葉に、私は心からの感謝を覚えた。日常の喧騒から離れて、一瞬でもこの穏やかな場所で過ごすことができる。それだけで、明日も頑張れる気持ちになった。
本を購入して、「時の彼方」を後にする時、店主が静かに言った。
「またお待ちしています。」
電車に乗り込み、再び本を開いた。ページを捲るたびに新たな風景が広がり、心が温かく満ちていく。その日から、私は毎日少しずつその本を読み進めるようになった。仕事帰りにあの店に立ち寄り、新たな本を手にすることも楽しみとなった。日常の中の小さな変化が、私の心を豊かにし、日々の充実感を増していった。
いつもの電車の座席から見える風景さえも、少しずつ変わって見えるようになった。それは本を通じて過去の自分と向き合い、新しい自分を見つける旅が続いている証なのかもしれない。そんな思いを胸に、今日も私は電車に揺られ、また新しいページを開くのだった。今日という日が、これからの未来につながる一歩となることを信じて。