日常の幸せ

朝の光が窓から差し込み、薄暗い部屋を明るく照らし始めた。阿部はベッドの上で寝返りを打ち、起き上がると部屋の隅に置かれた目覚まし時計に目を向けた。6時30分の文字が微かに揺れている。彼はゆったりとした動作で布団をたたみ、その日のために必要な心構えをするためにひと呼吸置く。


阿部の一日はいつも同じように始まる。平日の朝、まずはコーヒーメーカーに水を注ぎ、豆を挽く。キッチンの小窓から外を眺めると、近所の中年の主婦たちが朝の散歩を楽しむ姿や、通りを走る子供たちの声が聞こえてくる。そんな何の変哲もない日常の一部だが、それが阿部にとっては心地よいリズムになっていた。


彼がコーヒーを淹れている間、妻のさやかが二階から降りてくる。さやかはまだ半分眠っているが、阿部の淹れたコーヒーの匂いで少しずつ目を覚ます。二人は無言でダイニングテーブルに座り、蒸気が立ち上るカップを前にゆっくりと飲む。言葉がなくても、そこには暖かい空気が漂っている。


さやかが支度を終え、仕事に出かける準備をしながら「行ってきます」と言うと、阿部は「行ってらっしゃい」と微笑みながら返す。ドアが閉まる音が響き、阿部は一人時計の針の音を聞きながら、一日の開始を実感する。


その日は特別なことがない限り、阿部は家で執筆をする。彼は地方紙のフリーランス記者で、地域の出来事や人物紹介の記事を書いている。デスクの前に座り、ノートパソコンを開くと、昨日のインタビューのメモを見直す。首相旧家の歴史を守り続ける町のパン屋のインタビュー記事だ。長い年月を共に過ごした家族とその思い出を紡ぐ物語が、阿部の手によって丁寧に描かれていく。


昼食を摂る時間になると、阿部は手を休め、簡単なサンドイッチを作る。テレビをつけてニュース番組を見ながら、食事を取る。ニュースの合間に流れる天気予報を見て、午後の予定を考える。「今日は晴れ時々曇りですか」と独りごちながら、阿部は再び仕事に取り掛かる。


午後3時頃、近くの公園まで散歩に出かけることにする。手書きのメモ帳とペンを持って、阿部は公園内のベンチに腰掛ける。ここで人々の暮らしや何気ない風景を観察し、新しい記事のアイデアを探すのが彼の日課の一つだった。犬を連れて散歩する老夫婦や、遊具で遊ぶ子供たちの笑顔。そんな風景に心を和ませながら、阿部は自然の中でインスピレーションを得る。


帰宅後、また執筆に集中する。文章がスムーズに流れる時もあれば、いくら考えても言葉が出てこない時もある。それでも彼は諦めずにキーボードを打ち続ける。努力が実を結び、良い記事が書けた時の達成感が、日々の苦労を忘れさせてくれる。


夕方6時になると、仕事を終えたさやかが帰宅する。二人で夕食の準備をしながら、一日の出来事を報告し合う。阿部はその日書いた記事について、さやかは職場での出来事について話す。その中には、些細なことや面白かった出来事が含まれ、自然と笑顔がこぼれる。


夜、テレビを見たり、本を読んだりして過ごす時間、静かなリビングに二人で佇む。そんな時間が阿部にとって一番の癒しだった。夕食後の片付けが終わり、少しの時間でも二人で過ごし、心を休めることができるのだから。


一日の終わりに、阿部はベッドに横たわり、明日の予定を頭の中で整理する。そして、再び同じような日常が続くことに感謝し、眠りにつく。


日常には特別なことは何もないかもしれない。だが、その中には確かな幸せが詰まっている。阿部にとって、それが何よりも大切なことだった。平凡な毎日が、彼の人生を豊かにしていたのだ。