新時代の影
1868年、明治維新の真っ只中。日本は大きな変革の時代を迎えていた。政権が変わる中で、数々の動乱や混乱が続いていたが、その裏で静かに進行していた犯罪の影も少なくなかった。
東京の下町、神田橋近くに住む若い和式医師、佐藤健太郎は、日々の診療に追われていた。彼の患者の中には、当時はまだ農民だった田畑から上京してきた人々が多かった。その中には、江戸時代の名残を残すような武士の血を引く男、藤原浩一もいた。藤原は、失われた身分に未練を抱きながらも、新しい時代に適応しようと必死に働いていた。
ある晩、藤原が佐藤の診療所を訪れた。顔色が悪く、汗びっしょりだった。「医者、お願いだ。助けてくれ」と必死な様子で訴える藤原。口からは何かを飲み込むような動作を繰り返していた。佐藤は、藤原の様子を見て、何か異常があると直感する。症状を詳しく聞くと、藤原は「人を殺してしまった」と言った。
驚愕した佐藤は、藤原から事情を聞くことにした。彼は、他の農民たちと共に新しい生活を築こうとしていたが、その過程で、彼を束縛していた藩の役人と道で出会ってしまった。その役人は、彼に対して冷酷に振る舞い、恥ずかしい言葉を投げかけた。藤原は感情が高ぶり、手元にあった竹刀で一撃を加えてしまったのだ。役人はその場で倒れ、命を落とした。
藤原は気が狂うような思いで逃げ出したが、その後すぐに罪の意識が押し寄せた。周囲に疑念を待たせることなく、彼は正しい選択だったのか、時代に対する抵抗だったのか混乱していた。
「だけど、逃げることはできないんだ」と藤原は言った。佐藤は彼をそっと見つめ、自分の内なる葛藤に向き合う。医者として、彼には患者の命を救う義務がある。一方で、藤原の言うことが真実であれば、法の番人としての責任も果たさなければならない。医師としての忠誠と人間としての良心が彼を苦しめた。
それから数日後、藤原が再び訪れた。彼は不安な表情を浮かべながら、佐藤に経過を語った。「もう、藩の者たちが動き出した。私を探し始めている。どうしたらいいのか…」
佐藤は危機感を覚え、自分の力で彼を助ける方法を考えた。藤原が捕まり、江戸時代の名残を失ったら、彼の日常も完全に崩壊してしまう。法に従いそして忠誠を守ることが進歩的なこの時代でどう意味を持つのか、佐藤は自身の職務についても悩んでいた。
ある晩、佐藤は藤原に会うために指定の場所へ向かった。密かに農作物を運ぶ道の横に隠れ、人々がいないのを確認してから、藤原に声をかけた。「逃げる準備ができているか?」
藤原は小さく頷き、密かに持参した荷物を見せた。それは、彼自身の命を救う金だった。役人の墓の近くで見たある隠し金が、そのまま役に立ったのだ。佐藤はそれを使って藤原を逃がす計画を立てることにした。
問題は、この計画が成功すれば良いが、万が一失敗すれば、藤原はもちろん、自分も危険にさらされることだった。しかし、佐藤には彼を救いたいという思いが強かった。二人は夜の闇に紛れ込み、道を進むことにした。
道中、二人は何度も隠れ、足音を殺し、注意を払って進む。時折通り過ぎる人々の姿に緊張が走る。やがて、目的地の海岸に到着した。その先には、密かに待っていた漁船があった。藤原は船に乗り込み、漁夫に金を渡して逃げる手続きを進めたが、佐藤の心に大きな罪の意識が押し寄せていた。
「お前は、理解しているのか?」佐藤は藤原に問いかけた。「これは法を犯す行為だ。お前が逃げた先で、どうなるのかわからない。」
「私には、もう選択肢はない」と藤原は言った。彼の目には決意が宿っていた。最後に、佐藤は彼に一つの託けを残す。「生き延びろ。誰かのために生き続けるんだ。」
藤原は頷き、漁船の櫂を揺らし始めた。佐藤は彼を見送りながら、自分の心の中に一片の重苦しい思いを抱いていた。この選択がすべてを変えてしまったとしても、彼は藤原の決意を信じるしかなかった。新しい時代で、新しい未来を模索する人々がいるかもしれないと。
夜が明け、佐藤は無情に重い足取りで戻った。そして、再び医者としての生活が待っているのだと心に決めるのだった。しかし、彼の心を貫く傷は、藤原の逃亡を決めた瞬間から決して癒えることはなかった。そして、明治維新の裏に潜む罪が彼の心に刻まれて、影を落とし続けるのだ。