窓際の対話

都市の夜が静かに更けゆく中、私は窓際の一脚の椅子に腰を下ろしていた。外のネオン灯が薄暗い部屋の中に微かに差し込み、壁に不規則な明暗を描いている。それはちょうど、現代という時代の特性を象徴するかのようだった。


私は評論家として、多くの文章を世に送り出してきた。テーマは様々だが、最近特に関心を寄せているのは、現代社会における「つながり」と「孤独」の両面性だ。


スマートフォンやソーシャルメディアが浸透し、私たちはかつてないほどに「つながる」ことが簡単になった。それでも、ふと気がつくと、多くの人々が深い孤独感に囚われているのはなぜだろうか。私はこの矛盾を追求し、文章にまとめることに決めた。


ある日の午後、私は知人の勧めでとある若者との対談に臨んだ。彼の名は佐藤拓也、大学一年生で、情報工学を専攻している。若干十八歳の彼と、私、四十五歳の中年男性との間には、世代を超えたギャップが存在するだろうと最初は感じていた。しかし、対話を重ねるうちに、その予想はいい意味で裏切られた。


「現代のつながりについてどう思いますか?」と私はまず彼に尋ねた。


拓也は少し考え込んだ末に、こう答えた。「現代のつながりは、一種の『仮想的な親密さ』だと思います。SNSを通じて簡単に多くの人とつながれる反面、そのつながりは実際には浅いと感じることが多いです。」


「具体的にはどういうことですか?」と私は興味深げに聴き返した。


「例えば、SNSでのやり取りはテキストや写真、動画が主です。それらは瞬時に共有され、一見親密に見えますが、実際にはその裏にある感情や思いはなかなか伝わりにくい。結局、表面的なやり取りに終始してしまうことが多いんです。」


彼の言葉に私は深く共感した。自身もSNSを利用しているものの、そこでのやり取りが浅薄に感じることが多かったからだ。情報が瞬時に流れる現代において、本当に大切なつながりを見失っているのではないか、と感じずにはいられなかった。


私たちはしばらくの間、無言でいた。窓の外には、無数のビルディングが並び、その間を行き交う車のライトが見え隠れしている。まるで膨大な情報社会を象徴するかのようだ。


「実際に会って話すこと、人間同士のふれあいがいかに大切かを改めて感じます」と私は静かに言った。


「はい、その通りです」と拓也も同意した。「でも、それが難しい状況も多いですよね。特にパンデミックの期間中、人々が直接会うことが制限されました。その結果、ますますSNSに依存するようになったのも事実です。」


「その中で孤独を感じることはありましたか?」と尋ねると、彼は少し驚いた様子で「もちろん」と答えた。


「友人たちとオンラインゲームでつながっている時でも、実際には孤独感がつきまといました。それは、やはり物理的な存在感や温もりが欠けているからだと思います。」


その言葉を聞いて、私は深く頷いた。情報技術の発展によって、私たちはかつてないほどの便利さを手に入れたが、その便利さがもたらす弊害も無視できない。実際に人と会い、触れ合い、言葉を交わすことの重要性を、我々は忘れかけているのかもしれない。


対談が終わり、私は自宅に戻った。静かな部屋に立ち尽くし、拓也との対話を振り返る。確かに彼の言う通り、現代のつながりは仮想的なものであり、本質を欠いている場合が多い。それでも、そこにある焦燥感や孤独感を感じ取ることはできるだろうか。


文章を書く際に、私はその日触れ合った人々の言葉や表情、存在感を思い出しながら言葉を紡ぐ。そこに本質があると信じている。情報が瞬時に伝わる時代であっても、人間の心の温もりや思いやりを忘れずに、そのつながりを大切にしていくべきだ。


作品をまとめるために、私はパソコンに向かい、キーボードを叩き続けた。画面に映る文字は一つ一つが生き生きとして、私の心の中の問いかけに答えてくれているかのようだった。現代社会におけるつながりの矛盾と、その中で芽吹く孤独感。それを追及することで、人々が少しでも心を通わせ、重要なつながりを再認識できることを願ってやまなかった。