音楽と奇跡の絆

音楽とともに育った私の叔母、奈美子さんは、家族の中でもとびきり特徴的な存在だった。幼少期からピアノを習い、バイオリン、フルート、それからサックスと、次々に多くの楽器に挑戦していった。奈美子さんの家はまるで音楽教室のようで、毎日違う楽器の音色が響いていた。


私が小学生になった頃、彼女はプロの音楽家として活動を始めていた。私は彼女のコンサートによく足を運んだ。奈美子さんの演奏は情熱的で、聴いているだけで心が震えるようだった。特に、彼女がサックスを吹くと、まるで街のざわめきや風の音がその音色に溶け込むかのような錯覚を覚えた。


私が中学生になると、奈美子さんは一度音楽の世界を離れた。理由は当時私たち家族には明かされなかったが、彼女の演奏が聴けなくなるのは皆にとって大きな損失だった。それでも、彼女は家族のために様々な仕事をしながら、持てる力を出して日々を送っていた。


ある日、高校生になった私は、自分の部活でバンドを組むことになった。楽器は得意ではなかったが、奈美子さんの影響で音楽には興味を持っていた。メンバーが楽器の割り振りを話し合う中、私は自然と「サックス担当」を申し出た。


早速、奈美子さんにそのことを伝えると、彼女の目が輝いたのを覚えている。「いいじゃない!私がたくさん練習方法を教えるからね」と言って、古いサックスをクローゼットから取り出してくれた。それは彼女がプロとして活動していた頃からの相棒だった。


こうして夕方の時間、奈美子さんと私のサックスレッスンが始まった。彼女の指導は本格的で、時には厳しかったが、音楽の楽しさを常に忘れないようにしてくれた。私の指が初めて音を出したとき、思わず笑顔がこぼれた。まるで奈美子さんの情熱が音楽を通じて伝わってくるようだった。


学園祭の前日、私たちのバンドは最終練習に励んでいた。曲は難しく、何度もリテイクしなければならなかった。その夜、奈美子さんは何も言わず、ただ黙って私たちの練習を聴いてくれた。そして、「楽しんで演奏することが一番大事だからね」とだけ言ってくれた。


学園祭当日、ステージに立つ私たちは緊張していた。しかし、最初の音を出した瞬間、奈美子さんの言葉が頭をよぎった。「楽しむこと」――それだけだった。演奏が進んでいく中で、次第に緊張は解け、観客の反応も良好だった。最後の部分に差し掛かると、私たちは全員が一つの音楽になったような感覚に包まれた。


演奏が終わり、会場には大きな拍手が響いた。ステージを降りると、涙を浮かべた奈美子さんが私を抱きしめてくれた。彼女の温かさと音楽への情熱が、私たちバンド全員にも伝わったのだと思う。


それから数年後、奈美子さんは再びプロの音楽家として戻っていった。ただ一つ違うのは、彼女が私たち家族に、その理由を話してくれるようになったことだ。かつての一時的な音楽活動停止は、健康上の問題や家族の事情によるもので、彼女自身も断腸の思いだったという。


「でもね、あなたと一緒に楽器を演奏した時間が、私に大きな力をくれたんだ」と奈美子さんは言った。私たちは家族の絆と音楽の力によって、再び新たなスタートを切ることができたのだと。


彼女の音楽活動が再び華やかになると、家族全員がコンサートに足を運んだ。一時期離れていた舞台に戻った奈美子さんの姿は、以前にも増して輝いていた。その輝きは、私たち家族が共有する音楽の喜びと結びついていた。


あの日、ステージの上で感じた「一つの音楽」という感覚は、今でも私の心に深く刻まれている。それは奈美子さんだけでなく、私たち全員が音楽という美しい絆で結ばれている証だ。


音楽は単なる音の集合ではない。それは私たちの人生や感情を豊かにし、時には困難を乗り越える力を与えてくれるものだ。奈美子さんが教えてくれたこの大切な教えを、私はこれからもずっと胸に抱き続けていく。彼女と過ごした音楽の時間は、私の宝物であり、生涯忘れられない大切な思い出だ。