禁断の囁き
深夜、町外れの小さな書店に、静かな足音が響いていた。店主の佐藤は、古びた本棚の間を歩き回りながら、最後の客を見送った。雨がしとしとと降る中、彼は本を片付け、店を閉じる準備をしていた。しかし、ふとした瞬間、彼は不気味な気配を感じた。
店の奥から、微かに聞こえる声。明確ではないが、確かに誰かが囁いている。佐藤は一瞬、身を固くした。普段は静かなこの書店に、他の誰かがいるはずがない。店の奥には「禁断の書」として知られる一冊の本があり、誰も扱おうとはしなかった。興味本位でそこに足を運ぶと、冷たい風が背筋を撫でる。
本棚の陰に、小さな扉が隠れていることに気がついた。何気なく扉に手をかけると、開かれて中から薄暗い部屋が姿を現す。好奇心に駆られ、佐藤はその部屋に足を踏み入れた。部屋の中央には古びたテーブルがあり、その上には埃をかぶった数冊の本が置かれている。一冊の本が、特に彼の目を引いた。それは厚手の黒革表紙で、装飾に金色の糸が使われていた。
本を手に取ると、急に温度が下がったように感じ、背後に何かの気配を感じる。しかし、振り返っても誰もいない。恐怖心が芽生えながらも、興味は抑えきれず、彼はページをめくり始めた。そこに書かれていたのは、人々が失踪する村の話だった。その村では、毎年一人が犠牲になり、村の安泰が保たれていたという。伝説の中では、犠牲になった者が生き返り、その後、また新たな犠牲者を求めて怨念として彷徨うと記されていた。
佐藤は、その話がただの迷信であることを理解しながらも、心の奥底に不安を覚えた。気分を変えようと書店を出ようとするが、扉は固く閉ざされていた。力を入れて引いても開かず、まるで誰かが内部から押さえているかのようだった。焦りが募り、彼は再び「禁断の書」の方へと戻る。
その瞬間、耳元で囁く声が聞こえた。明確には理解できなかったが、自分の名前が含まれていることだけはわかった。恐怖に駆られた佐藤は、本を閉じ急いで扉に駆け寄る。しかし今度は、冷たい手が彼の肩を掴む感触がした。
振り向くと、そこには顔色の悪い見知らぬ女性が立っていた。彼女の目は虚ろで、口は微かに動いていたが、言葉は出てこなかった。ただ、彼女の指差す先に、無数の暗い影が映し出されていた。それらは彼に向かって蠢き、囁く声は次第に大きくなった。「あなたも、私たちの仲間にならなければならない。」
恐怖は頂点に達し、何とか扉を開けようともがくが、その影はどんどん近づいてきて、彼を包み込んでいく。無意識のうちに、彼は「助けて!」と叫んでいたが、声は自分の耳に届かない。彼の足元から、地面が崩れ落ちる感触があり、彼は完全にその影が支配する領域に引き込まれていった。
やがて、彼は気を失った。気が付くと、彼は再び書店の中央に立っていた。本棚の間は静まり返っており、外の雨音だけが響いていた。何が起こったのかは記憶にない。ただ、手にはあの黒い本が残っていた。
恐怖心がぶり返す。「これを閉じ込めなければ」と心に誓う。その本を店の奥に隠し、佐藤は再び万全を期して外に出ようとした。その時、彼の背後から、かすかな囁き声が再び響いた。「あなたの名前は、もう私たちの一部。」
再び、彼は黒い本に目を向ける。開くことでしか逃れられないと感じながらも、それを手放すことができず、彼は言葉もなく呆然と立ち尽くす。外の雨音すら、彼にとっては遠い世界の音のように聞こえた。店は静まり返り、時は止まったかのように思えた。彼はこの場所で、永遠に目覚めることのない夢を見続けているのだと、心の奥で冷静に理解していた。