海の境界
深夜の漁港は、漆黒の闇に包まれ、潮騒が静かに響いていた。その日は台風の影響で波が荒く、船を出す者は誰一人としていなかった。唯一の例外は一隻の古びた木造船、そしてその船には異様に痩せた老人が一人、足元に何かを見つめていた。
「お前、何を隠しているんだ?」小さな声で老人が自問自答するように言った。その足元には、見た目からしてただの釣り具であるはずの箱があった。しかし、その箱の中には老人の息子、康二の写真が収められていた。康二は5年前、海での漁の最中に行方不明となり、未だ消息は掴めていない。
その夜、老人は漁港で行方不明事件を担当している刑事、中村に電話をかけた。「康二に会いたい」とだけ告げ、電話は切れた。刑事の中村は、この電話から何か重大な手がかりが得られると直感的に感じ、すぐさま漁港へ向かった。
漁港に到着すると、中村は老人が乗っていた船の灯りに気付いた。老人は船の甲板に立ち、薄笑いを浮かべながら「お前に見せたいものがある」と呟いた。中村は船に乗り込み、老人が示す箱の中身を確認した。康二の写真だけでなく、もう一つの箱には何か異様な音がしていた。中村はその箱を慎重に開けた。
「これ……生きているのか?」中村が尋ねると、箱の中には不自然に動く魚が入っていた。それはまるで、異世界からやってきたかのような異形の代物だった。老人の目は何かを悟ったように、そして狂気の色を帯びていた。
「康二はこの魚とともにいるんだ」と老人は断言した。中村は驚きと恐れで一瞬身動きが取れなかったが、冷静さを取り戻すと老人に向き直った。「康二が生きていると言うのか? それとも、この魚が康二だと?」
老人はゆっくりと首を振った。「分からん。ただ、康二が持っていた釣り道具がこの魚の中から見つかって、そしてこの魚は普通の魚とは違う。もしかしたら、康二の魂が魚になったのかもしれん。」
中村はその言葉にあまりにも荒唐無稽だと感じながらも、一抹の真実味を否定することができなかった。「この魚、どこで見つけたんだ?」
「船の底からだ。あの台風の日、康二は海に消えたが、この魚だけは船に戻ってきた。彼の釣り具とともに。」
中村は老人の言葉に耳を傾け、同時になぜ自分がここに呼ばれたのかを考えざるを得なかった。「それで、俺を呼んだのは?」
老人は再び箱の中の魚を見つめ、「お前に康二の真の運命を解き明かして欲しいんだ。俺にはもう分からない。生きているのか、死んでいるのか、康二は今どこにいるのか。」と震える声で呟いた。
その晩、中村は老人とともに船を出し、荒波に挑んだ。老人の指示通り、ある特定の地点に向かった。そこは康二が最後に目撃された場所だった。波は激しく船に打ち付け、まるで何かを拒むように感じられた。
「ここだ。」老人が指をさした。
中村は魚の入った箱を持ち、海を見つめた。「ここで何を?」
「魚を海に戻すんだ。康二が戻ってくるかもしれん。」
中村はその不可解な言葉に半信半疑ながらも箱を開け、異形の魚を海に解放した。瞬間、波が急に静まり、夜の闇が一層深まるように感じた。それから、何も起きなかったが、老人の目には安堵の色が浮かんでいた。
次の日の朝、漁港に戻った中村と老人は何事もなかったかのように日常に戻っていった。そして、中村は老人に別れを告げて帰途に就いた。しかし、その夜、中村の夢の中に康二が現れた。
「お前のおかげで解放されたよ、ありがとう。」康二の声は柔らかく、どこか懐かしい響きだった。中村はその夢が何を意味するのか確かめる術はなかったが、ふと目を覚ますと、不思議な安心感に包まれていた。
その後、老人は漁港に現れることはなく、人々の記憶からも次第に薄れていった。しかし、中村にとって、あの夜の出来事は、現実と夢の境界が曖昧になる瞬間として、心に深く刻まれていた。
康二の行方は依然として不明だが、生死の境界を超えた何かが確かに存在しているのだと、あの夜海に沈んだ魚が教えてくれたのかもしれない。