蒼の手引き
闇市の片隅にある、古びた本屋が舞台だ。その本屋は中に入るとすぐに湿気の匂いが漂い、古書の山が無秩序に積まれていた。誰一人として本当にこの店の全貌を知る者はいない。店主の鶴田老人だけが、その知られざる全貌を知っているように見えた。
冬の夜、雪がちらつく中、私はその本屋の扉を押し開けた。古い鈴がカランコロンと音を鳴らし、私は温かい空気と共に店内に足を踏み入れた。あたりを見渡すと、どこから手を付けていいか分からないほどの本の山。ふと視線を感じて奥を見ると、鶴田老人がカウンターの後ろでじっとこちらを見つめていた。
「いらっしゃいませ。珍しいお客さんですね」と彼は微笑んだ。
「探している本があります。『蒼の手引き』という本を知りませんか?」私は目的を告げた。
老人の顔に一瞬の驚愕が走る。彼は一瞬だけ目を逸らし、また私に目を戻した。
「『蒼の手引き』か...非常に珍しい本です。お持ちの方も少ないでしょう」
「どんな情報でも構いません。その本の所在を知りたいんです」
再び老人は怪訝そうに私を見た。そして意を決したように頷くと、本の山の間を器用に避けて奥に進んだ。数分後、彼は埃まみれの薄い一冊の本を手に戻ってきた。
「これがそうです。ただ中身を見る前に少しお話させてください」
私はその本に手を伸ばしかけたが、彼の真剣な眼差しを見て思わず手を止めた。
「この本は、実は単なる指南書ではありません。この本を手にした者は、必ずと言っていいほど不幸に見舞われました。それゆえ、世の中からこの本の存在が消えることを願う者もいるのです」
「不幸? そんな馬鹿な話を信じろと?」
「信じるも信じないも、あなた次第です。でも、この本を読んだ人々が次々と失踪したことだけは事実です」老人は重々しく言い放った。
私はその警告を無視し、どうしても本を手にしたかった。結局、彼から本を買い取り、家に持ち帰った。部屋に戻ると、私はすぐに読み始めた。
最初のページには何も掲載されていない。その次のページには「読むべきではない」とだけ書かれている。私はその警告を無視して更にページをめくった。しかし、次のページも空白。全ページがそうだった。最初は騙されたのかと思ったが、突然、最後のページに奇妙な文字が浮かび上がってきた。
「秘密を知りたければ、過去を振り返れ」
その言葉に従い、私は自分の過去を思い返してみた。そして思いついたのは、十年前の失踪事件だった。当時付き合っていた彼女が突如として姿を消したのだ。失踪の直前に彼女も「蒼の手引き」という本を手に入れていたことを思い出した。
この本には彼女の失踪に何か関係があるのか? そう思い始めた瞬間、本がパラパラと勝手にページをめくり始めた。そして、中から一枚のメモが飛び出してきた。
「地下室に隠された真実を知りたければ、再び本屋へ戻れ」
そのメモには不穏な予感が漂っていた。しかし、私は動かされたように再び本屋へと足を運んだ。晩夜、再びその本屋の古びた扉を開けた。
「戻ってきましたか...」鶴田老人は呟いた。
「この本がきっかけで、彼女が失踪したのではないかと思います。どうか、地下室に案内してくれませんか」
老人は深くため息をついてから、無言で店の裏手に私を連れていった。そこには小さな扉があり、重い鉄の鎖で封じられていた。しかし老人は鍵を持っており、それを開けると階段が現れた。闇に包まれた地下室へと足を踏み入れた。
地下室は寒気が漂い、不気味なほど静まり返っていた。古びた電球が一つだけ揺れて光を放っている。
「ここです。『蒼の手引き』が編纂された場所です」
「何が...ここにあるのですか?」
そこで老人は一冊の帳簿を取り出し、その中には数多くの名前と日付が記されていた。ページをめくっているうちに、私は見覚えのある名前を見つけた。彼女の名前だった。その名前の横には「最終章」とだけ書かれていた。
「彼女はここで何を?」
「彼女は真実を求め、この本の最終章に触れてしまった。その結果...彼女はこの世から消えたのです」
老人が言うには、この本はただの指南書ではなく、人々の深層心理に触れるための危険な道具だった。そして最終章に到達した者は、決して戻って来ることはない。
「では、どうすれば彼女を取り戻せるんですか?」
「そこにあるもうひとつの手引きを使うことです。ただし、あなたも戻ってこれない覚悟が必要です」
私の心に決意が芽生え、二度と戻れないかもしれないことを覚悟して、そのもう一つの手引きを手に取った。私は深呼吸を一つし、その本のページを開いた。
そして、物語は不気味なほどに私の目の前で始まり、現実との境界が曖昧になっていった。私の最後の記憶は、暗闇の中で彼女の名を呼び続ける、もはや自分が誰なのかもわからない私の声だけだった。
本屋はその後、廃業となり、鶴田老人の姿も消えてしまった。闇市の片隅にある、古びた本屋は再び静寂に包まれ、誰一人としてその店の全貌を知ることはなかった。