忘れられた涙

彼女は、古びた屋敷の中にひとり立っていた。そこは、かつて彼女の祖母が住んでいた場所であり、幼いころに何度も訪れた思い出の家だった。しかし、その思い出は次第に色あせ、今や世代交代の影となって、彼女の心を重くしていた。


屋敷の中は、薄暗く静まり返っていた。窓はかすんでおり、埃が積もった家具は長い間使われていなかったことを告げていた。彼女は、遺品整理のためにここに来たのだが、作業を始める気にはなれなかった。何かが彼女を引き留めるようで、足が一歩も前に進まなかった。


「もう少しここにいよう」と彼女は心の中でつぶやいた。外は薄暗闇に包まれ、風が冷たく吹きつけていた。まるで、この屋敷が彼女を外の世界から守っているかのようだった。彼女は、居心地のよくないソファに腰を下ろし、周囲の様子を眺めた。昔の思い出が蘇り、暖かい気持ちにもなったが、同時にさびしい気持ちも感じていた。


その時、彼女の耳に微かな音が響いた。何かが動く音だった。心臓が一瞬止まり、思わず息を呑んだ。彼女は周囲を見回したが、誰もいない。音は再び聞こえた。今度は明らかに別の部屋から来ている。しかし、どの部屋からなのか分からなかった。彼女は恐る恐る立ち上がり、その音の元へと足を進めた。


薄暗い廊下を進むと、目の前にドアが見えた。彼女はドアをそっと押して、中に入った。ドアの向こうには、祖母の書斎が広がっていた。大きな本棚に囲まれた部屋には、彼女の記憶の中で熱帯魚が泳いでいた水槽があった。しかし、今は水槽は空で、ほこりが積もっていた。


音はまたしても聞こえてきた。彼女は水槽のそばに立ち、耳を澄ました。そこから微かなすすり泣きの声が聞こえた。思わず背筋が凍る思いがした。声は徐々に大きくなり、彼女の心に恐怖が浸透する。視界がぼやけていく中、彼女は何かに誘導されるように、部屋の奥にあるクローゼットの前に立っていた。


クローゼットは閉じられていたが、呼吸音がそこから聞こえた。彼女は手を伸ばし、ドアを引いた。ドアはぎしりと音を立てて開いた。その瞬間、彼女の目の前に、まるで誰かが隠れていたかのように、祖母の姿が現れた。長い白髪に老いた顔、そしてどこか悲しげな眼差し。彼女は驚きと混乱に襲われた。


「おばあちゃん…?」彼女は思わず呟いた。しかし、祖母の姿は彼女の呼びかけに反応することはなかった。ただ、静かに泣いている。彼女は思わず涙が溢れてきた。それが悲しい感情からくるものなのか、恐怖からくるものなのか、分からなかった。


「ここを離れないで」と彼女は強く願った。祖母のことが気になって、何か大切なことを伝えたくて仕方がなかった。しかし、祖母はただ、口を開かずに泣き続けている。彼女はその姿を見つめるうちに、心の奥に潜む何かが目覚めるのを感じた。


すると、突然、クローゼットの中から冷たい風が吹き出し、彼女の体を揺さぶった。彼女は恐怖で持ちこたえられず、クローゼットから飛び出した。背後で祖母の姿は消え、部屋は再び静寂に包まれた。彼女は立ち尽くし、冷たい汗をかいていた。


「おばあちゃん、どうしたの?」彼女は震える声で問いかけたが、返事はなかった。彼女は急いで屋敷を出ようとしたが、視界の端に何かが動いたのを感じた。それは、祖母の姿とはまるで違う、仮面をつけた誰かが立っているように見えた。


彼女は動けないでいた。その仮面の存在は、彼女をじっと見つめ、何かを待っているようだった。彼女はその恐怖に耐えきれず、屋敷の扉を開けた。外に逃げ出そうとした瞬間、仮面の人物が迫ってきた。


彼女は逃げ出し、外に出た瞬間、振り返った。屋敷はもとの静けさを取り戻していた。しかし、彼女の心には、仮面の存在と祖母の涙が深く刻まれていた。彼女はただ、二度とこの場所に戻ることはないと心に誓った。家族の記憶は美しさだけでなく、恐ろしさも同居していることを、彼女は痛感したのだった。