心の探求
初めて心理学の授業を受けたのは、大学2年生の春だった。特に興味があったわけではない。必修科目であり、単位取得が目的だったからだ。しかし、その授業が私の内面に与えた影響は、それまでの人生で経験したどの授業とも違っていた。
授業は主に心理学の基礎理論や実験結果について話される。「人間の行動や感情は、どうしてこうなるのか」という問いを追求する学問であり、その答えを求める過程そのものが、私にとっては極めて魅力的だった。特に、フロイトの無意識の理論やユングの集団的無意識の概念に強く引かれた。人間は意識していない部分でさえ、何らかの規則やパターンに従って動いていると知ることが、新鮮だった。
ある日、講義で「防衛機制」というテーマが取り上げられた。意識から消し去ろうとする感情や欲求が、どういった形で表れるかを説明する理論だ。例えば、抑圧や投影、退行といった様々な防衛機制の例が出された。そのとき、ふいに思い出したのは私の中学時代の友人、恵美(えみ)のことだった。
恵美は誰にでも優しい子だった。けれど、彼女には奇妙な癖があった。時々、思い出したように何時間も一人でボール遊びをするのだ。まるで幼い子どもみたいに。私たちが尋ねると、笑顔で「これが私のストレス発散法なの」と言った。正直、何か変だなとは思ったが、それ以上詮索することはなかった。
授業を受けているうちに、彼女の「幼児退行」がストレス対策だったことに気づいた。中学生活は勉強や部活、友人関係といった目に見えない圧力で満ちていた。恵美はその重圧を軽減するために、無意識のうちに幼児期の行動に戻ることで自分を守っていたのだ。こんな風に人間の行動を紐解くことで、記憶の中の彼女がまるで新しい人間に見えてきた。
心理学の学びが進むにつれて、私自身の心も深く見つめるようになった。ふとした瞬間に私は、自分が何を感じているのか、なぜそう感じるのかを問うようになった。そして、その問いに対する答えが、私の中で次第に明確になっていった。
成人してからのある日、久しぶりに恵美と再会する機会があった。彼女は今、臨床心理士として働いている。お互いの近況報告をする中で、私は彼女に当時のことを尋ねてみた。恵美は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。
「そうね…。あの頃はわからなかったけど、今思えば、自分を守るための方法だったんだと思う。心理学を学んで、それが防衛機制の一つだって気づいたの。」
やはりそうだったのだ。心の奥底で私が感じていた不安や葛藤も、きっと何らかの防衛機制によって和らげられていたのだろう。自分を理解するためには、まず心の中を整理しなければならなかったのだ。
恵美と話す中で感じたことは、心の中で募り続けていた巨大なパズルのピースが、少しずつ嵌まっていく感覚だった。人間の心理は複雑で、多層的だ。しかし、それを一つ一つ解明していく過程こそが、人間であることの意味なのだ、と気づかされた。
その日の帰り道、私は勝手に心が軽くなったような気がした。心理学という学問を通じて、過去の友人との再会や自身の心の在り方に触れる中で、人間の心の奥深さを感じた。心理学は単に学問ではない。それは自分自身を理解するための鏡であり、他者との関係をより良くするための道具である。
「心理」とは、ただ頭の中の勉強だけに留まらない。日常の中で繰り広げられる感情や思考の流れ、その一つ一つが、心理学の教材であり、実験材料なのだ。日々の何気ない出来事こそが、私たちの心を育て、そして磨いていく。
その後も心理学に対する興味は冷めることなく、大学院に進み専門的な学びを深めた。現在では、自分自身も心理療法士として働いている。クライアントとの対話を通じて、彼らの心の奥底に潜む悩みや希望、恐れや喜びに触れ、それを理解し解決する手助けをすることが、私の生きがいとなっている。
心理学を学んだことで得られた知識や経験は、決して枠に囚われるものではない。それは日常のすべてに生きている。そして、それを通じて心と心が触れ合う瞬間、そこにこそ人間の本質があるのだと感じている。
人生は一つ一つが心理の探求であり、その探求を通じて私たちは成長し続けるものだ。過去の経験も、現在の自分も、未来へのステップの一部に過ぎない。そしてそのすべてが、私の「心理」を構成しているのだ。