囁きの森の影
彼女は、小さな村の外れにある古びた家に引っ越してきた。家は長い間放置されており、周囲には鬱蒼とした森が広がっていた。地元の人々はこの家を恐れ、近づこうともしなかった。村に着く前に聞いた噂話では、何十年も前に家の住人が失踪したという。しかし、彼女はそんなことを気にしなかった。新たなスタートを切るには、静かな場所が最適だと考えた。
数日後、彼女は家の中を整理していると、壁の隙間から古びた日記を見つけた。日記は一人の女性のもので、彼女もまたこの家に住んでいたと書かれていた。ページをめくるごとに、彼女の生活や感情が描かれており、しだいにその女性に引き込まれていった。日記には、周囲の森にある奇妙な現象についての記述もあった。そこで起こる不思議な出来事や、夜になると聞こえる囁き声など、彼女の興味を惹いた。
数日後、彼女は日記の女性が言及していた森へ足を運ぶことにした。日記には「声に誘われてはいけない」と繰り返し書かれていたが、彼女はその声を聞いてみたくなった。森の奥へ進むと、薄暗い空間が広がり、奇妙な静けさに包まれていた。心臓が高鳴るのを感じながらも、彼女はさらに深く進んだ。
そのとき、遠くからかすかな囁き声が聞こえた。「こちらへおいで…」と、甘い誘惑のような声だった。彼女は立ち止まり、その音に耳を傾ける。恐怖と好奇心が入り混じり、彼女は足が動かなくなる。次の瞬間、不意に風が吹き抜け、彼女の髪がはためいた。
声の方に向かうと、そこには古びた石碑が立っていた。石碑にはうっすらとした文字が彫られており、「彼女は帰らなかった」とだけ記されていた。とたんに彼女の背筋が凍りつく。日記の女性がここで何かを残したのか。その瞬間、彼女は背後から声が聞こえた。「あなたも…ここに残るの?」
振り返ると、視界に広がるのは、一人の女性の姿だった。彼女はその女性を見つめ、恐怖に震えながらも、不思議な親しみを感じた。女性は穏やかな表情を浮かべ、「私もここに住んでいました」と言った。「でも、私はもう帰れない。この場所は私を束縛しているから。」
彼女はその言葉に吸い寄せられ、女性の身に何が起こったのか知りたくなった。「どうすれば帰れるの?どうしてあなたはここに?」と尋ねる。しかし、女性はただ微笑むだけで、答えを返さなかった。
そのとき、彼女の脳裏に日記の内容が次々と過ぎっていく。日記の中で感じた生活の喜びや、森の声に引き寄せられた苦悩。女性は日記の主であり、彼女が浸り込んでいた世界の中で何か大切なものを失ってしまったのだと理解した。
恐怖から逃れるように、彼女はすぐに森を離れようとした。しかし、その瞬間、足元から冷たい感触が絡みつき、まるで彼女を引き留めようとするかのようだった。女性が叫ぶ。「帰らないで!一緒にここにいよう!」
彼女は必死で足を動かした。森の出口が遠ざかっていくように感じる。彼女の心の中に不安が渦巻く。後ろを振り返ると、女性はまだ微笑んでいた。
「私もあなたと一緒にいたい。私たち、孤独を共有できるから…」
恐怖心がピークに達する中、彼女は「声に誘われてはいけない」という日記の言葉を思い出した。力を振り絞り、振り返らずに森を駆け抜けた。自らの足が自分を導くように感じた。その瞬間、耳元でささやく声が消えていった。
やっと森を抜け出し、家のドアを閉める。息を切らしながら、彼女は日記を手に取った。その中の女性の言葉が頭の中で鳴り響く。彼女は自問する。「この家に住むことは、過去の影に取り憑かれることなのか?」恐れを抱きながらも、彼女は日記を閉じた。
数日後、彼女は家を出ることを決意した。もうこの場所にはいられない。森と日記の女性の影が彼女を拘束してしまう。彼女は全てを持って、一歩踏み出す。最後に、振り返りたくてたまらない気持ちを抑えながら、村の中心へ向かった。
その後、誰も彼女の姿を見なくなった。家には静寂が戻り、ただ日記が古びたページの中で新しい読者を待っているだけだった。その日記には、幾人もの人々が次々と引き寄せられ、同じ運命を辿ることになる伏線が潜んでいた。村の人々は、亡霊たちの囁きを耳にするが、誰一人として森へは入ろうとはしなかった。