星の下の約束

陽が沈む頃、街の片隅にある小さなアパートの一室、沙織はソファに座り、目の前に広がる皺だらけの顔を見つめていた。彼女の祖母、美佐子は、もう十年近く認知症を患っていた。年々薄れていく意識の中で、美佐子は時折、若かりし頃の思い出を語り始め、そのたびに沙織は心の奥が痛むのを感じた。


「沙織ちゃん、今夜は星が綺麗だね。」美佐子が突然空を見上げて言った。沙織はたじろぎながら、「そうだね、星が見えるね。」と返す。だが、美佐子の目には既に家族の面影はなく、高校時代の友人の名前や、子供時代の思い出をつぶやくことが増えていた。


毎夕、沙織は仕事の後に祖母の元へ通う。フルタイムの仕事を持ちながら介護を続けるのは体力的にも精神的にも大変だった。母親は早くに亡くなり、父親とは疎遠になってしまったため、この役目はすべて沙織の肩にのしかかっていた。


ある晩、沙織がいつものように夕食を作っていると、美佐子が突然、「私の名前は?」と質問し、沙織は胸が締め付けられる。一般的には、こうした冗談も笑い飛ばすことができるが、認知症が進行するにつれて、沙織はそれを冗談とは思えなくなっていた。


「沙織だよ、私は沙織、あなたのお孫さんだよ。」美佐子は目を細め、やっと理解した様子で、その後はしばしの沈黙が訪れた。沙織は心の中で「どうして私たちはこんなにも孤独なんだろう」と呟いた。


次の日、沙織は仕事が終わってから、ふと母の古いアルバムを開いた。中には、かつての幸せそうな家族の写真が並んでいた。笑顔の美佐子、若き日の母、そして小さな沙織。幸せそうなその光景が、今はすっかり変わり果てていた。


その時、沙織は決意した。祖母をただ頼るだけの家族ではなく、共に笑い合える存在にしたい。美佐子の記憶が薄れていく中でも、一緒に新しい思い出を作ろう。


数日後、沙織は近くの公園に美佐子を連れ出した。心配しながらも、日差しの中で咲く花々や、小鳥のさえずりを聞かせることができると期待した。公園に着くと、美佐子は一瞬何かを思い出したような顔をし、微笑んだ。しかし、すぐにぼんやりとした表情に戻る。


「ここの花、綺麗だね。」沙織は手を握りながら言った。美佐子はただ頷くが、その瞳の奥にかつての自分の青春が映っている気がした。沙織はその瞬間、何かを取り戻せたように感じた。


日々の中で、沙織は母の教えを思い出しながら、一緒に料理をしたり、昔の歌を歌ったりした。それによって、美佐子は時折、若かりし頃の明るい表情を見せることが増えていった。沙織にとって、それはかけがえのない瞬間だった。


だが、そんな日々は長くは続かなかった。ある夜、沙織は美佐子の部屋から異音がするのに気付いた。急いで駆けつけると、畳の上で美佐子が倒れていた。慌てて救急車を呼び、病院に運ばれると、医師から重篤な状況であることを告げられた。


沙織の心は崩れそうだった。美佐子がどんなに認知症を進行させていようとも、彼女の存在は決して無駄なものではなかった。無意識の中で繋がり続ける家族の絆が、痛いほど実感される。


病室で美佐子が意識を取り戻した瞬間、沙織は必死にその手を握りしめた。「おばあちゃん、私はここにいるよ、沙織だよ。」美佐子は皺の深い皮膚を苦しげに動かしながら、ゆっくりと目を細めて「あなたは私の大切な人。ありがとう…」と弱々しく言った。


その言葉は、沙織の支えになった。周囲の静寂の中、彼女は新たな決意を胸に抱いた。どんな状況でも、家族の愛は永遠に消えないと信じながら、これからの道を歩んでいくことを誓ったのだ。心の奥に温もりが溢れ、家族の絆に対する理解が深まっていく。美佐子と共に過ごした日々を、大切な思い出として胸に刻んでいくことを、沙織は決して忘れないだろう。