消えた彼女の影

薄暗い森の奥深く、一軒の古びた別荘が佇んでいた。周囲は静寂に包まれ、時折、風が木の葉を揺らす音が聞こえるだけだった。この別荘は、数年前に失踪事件が起こった場所として、村人たちの間では忌まわしい記憶として語り継がれていた。しかし、そんなことにはお構いなく、若いカップルの莉奈と翔一が、ほんの少しの勇気をもってその別荘に訪れることになった。


二人はハロウィンの夜を祝い、スリルを求めてこの場所を選んだ。莉奈は都市伝説やホラー映画が大好きで、一方の翔一はその付き合いで仕方なく来たようなものだった。だが、彼も心のどこかで、こうした非日常的な体験を楽しみにしていた。


夕暮れ時、彼らは別荘の門をくぐった。古びた木の扉がぎーっと音を立てて開く。中は埃まみれで、使われていない家具が薄暗い隅に無造作に置かれていた。非常口のない一階は、まるで時間が止まったかのようだった。莉奈はその光景にゾクッとしながらも、沸き起こる好奇心を抑えきれず、さっさと部屋の探検を始めた。


「ねえ、翔一、こっち来てみて!」莉奈の声が響く。翔一はしぶしぶついて行った。そこには、大きな本棚があり、古い本がちらばっていた。その一冊の本が目を引いた。「人々が消えた場所」と題されたその本には、失踪事件に関する詳細が書かれていた。翔一は眉をひそめて読み進めながら、莉奈に気づかれないように後ろを振り返った。誰かに見られている気がして、ぞわりとした。


「何か変なこと書いてある?」莉奈は興味津々で翔一に近づく。翔一はそのまま本を閉じ、口をつぐんだ。「いや、大したことじゃないよ」と言ったが、彼の心は不安でいっぱいだった。


その夜、二人は一階のリビングに布団を敷いて寝ることにした。蝋燭を灯し、ほの暗い光の中で、彼らはウィンナーを焼き、無邪気に笑い合った。だが次第に、胸の奥に潜む不安がふくらんでいく。風の音が強くなり、まるで誰かが外から見ているような、そんな気配が漂ってきた。


「ちょっと、トイレ行ってくるね」と莉奈が立ち上がった。彼女は薄明かりの中で廊下を歩き、トイレへ向かった。そのとき、翔一は妙な冷静さを感じていた。何か悪いことが起こりそうだ。


しばらくして、莉奈が戻ってこない。翔一は心配になり、部屋を出て彼女を探しに行った。廊下の奥からかすかに、何かをささやく声が聞こえる。それは、莉奈の声とはまったく異なる、低くて不気味な響きだった。


「莉奈?」翔一は声をかけたが、返事はなかった。彼は急に恐怖感に押しつぶされそうになり、声のする方へ近づいていった。冷たい空気が彼の背中を撫で、何かが背後にいるような感覚がした。


声は一つのドアの向こうから聞こえていた。翔一は息を呑み、ドアノブに手をかけた。開けようとした瞬間、ドアが自動的に開き、薄暗い部屋が姿を現した。その中には、ボロボロになったソファと、何もない壁だけがあった。だが、彼はその中に、莉奈の姿を見逃さなかった。彼女は無表情で、その場に立っていたのだ。


「莉奈、どうした?」翔一は心配して声をかけるが、彼女は動かなかった。翔一は恐る恐る近づいて、彼女の肩に手を触れた。その瞬間、莉奈の顔がゆっくりこちらを向いた。だが、その目はどんよりとした空虚な色をしており、翔一は全身が凍りつくのを感じた。


「どうしたの?」翔一は再度尋ねた。すると、莉奈の口が動き出し、か細い声で言った。「もう、行かなくちゃ…」


その言葉を聞いた瞬間、翔一は背筋に寒気が走った。直感的に何かが異常であることを感じた。莉奈は自分とは違う誰かになってしまったのだ。その時、後ろから冷たい空気が流れ込み、彼は振り返ることができなかった。何かが迫ってくる感覚に、足がすくむ。


「莉奈、これからどうする?」翔一が叫んだ。すると、彼女は再び口を開いた。「彼らが待ってるの…私を迎えに。」


その声とともに、響く不気味な囁きが周囲に充満し、翔一は恐怖に駆られて逃げ出した。リビングへと駆け戻り、どうにかして出口を見つけようとした。しかし、背後にはとてつもない気配が迫っていた。


やっとの思いで外に出ると、うっすらとした月明かりが周囲を照らす。翔一は振り返った。莉奈はもうそこにはいなかったが、木々の間から何かが動くのが見えた。かすかに笑い声が聞こえ、彼の心は恐怖と絶望で満たされた。


その後、翔一はその夜、別荘を逃げ出し、村に戻った。しかし、莉奈の行方は誰にも知れなかった。村の人々は口を揃えて言った。「あの別荘には近づいてはいけない。彼女のように、誰かがまた消えてしまうから。」


月明かりの下、翔一はその言葉を忘れることができなかった。彼の心には、莉奈の笑顔と、何かに引き寄せられていくその視線が焼き付いていた。永遠に戻れない場所に、彼女は今もいるのだろうか。翔一は夜が明けるまで、眠ることができなかった。