禁忌の村の影
静かで陰鬱な村に、昔からの言い伝えがあった。夜になると、村の外れに住む男、太一のことを語らうことは禁忌とされていた。彼はかつて、村人たちによって精神を病むまで追い詰められ、ある晩、何人もの村人が消息を絶った。太一はその後、村を離れ、姿を消した。彼の名前を口にすることは、死者を呼ぶようなものだと言われた。
そんな村に引っ越してきた若い女性、香織は、都会の喧騒から逃れたかった。彼女は静かな生活を求めて、村の古い家を借りた。最初は不安だったが、周囲の人々とも少しずつ打ち解けていった。しかし、村人たちは決して太一の話を口にしようとしなかった。興味を持った香織は、彼の存在に対する禁忌と村の不気味な雰囲気に惹かれ、徐々にその謎を解明したい欲望が強くなっていった。
ある夜、月明かりの中、香織は村の外れに行くことを決心した。彼女は古井戸の近くに立つ廃屋が太一のかつての住処だという噂を聞いていた。その小道を進むと、次第に息苦しい緊張感に包まれた。ふと、冷たい風が吹いて、彼女の髪を揺らした。ついに廃屋に辿り着くと、ドアは反り返り、内部からは薄暗い気配が漂っていた。
香織は深呼吸をし、ドアを開けた。中はひどく荒れ果てていたが、何かが彼女を引き寄せる。奥の部屋に目を向けると、一つのベッドが置かれており、そこで痩せた男性がうつ伏せになっていた。心臓が早鐘のように打ち鳴る。彼は太一かもしれない。香織は声をかけようとしたが、思わずその場から足がすくんでしまった。
男性がゆっくりと顔を上げる。目は潤んでいて、どこか異常な光を宿していた。「お前は誰だ?」と彼は低い声で尋ねた。香織は恐怖を押し殺しながら自己紹介をする。「私は香織。村に引っ越してきた者です。」彼の目が一瞬だけ驚きに見開かれた。「村の連中は…まだ俺を恐れているのか?」
香織は思わずうなずいた。彼は笑った。「そうか、恐れているのか。だけど、俺は何もしていない。逆に、俺は…彼らが俺にしたことを忘れられない。」彼はゆっくりと立ち上がり、香織に向かって近づいてきた。彼の顔には狂気が宿っていたが、その中に哀しみもあった。「彼らが俺を追い詰め、狂わせたんだ。」
香織の心の中で何かが弾けた。彼はただ被害者なのか?しかし、次の瞬間、彼の目が変わった。邪悪な笑みが浮かび、「だが、あいつらはまだ俺のことを忘れてはいない。だから、教えてやろう。忘れ去られた存在が何を思うか、どんなことをするのかを。」
一瞬の静寂の後、彼は香織の手を掴み、強引に引き寄せた。彼女は抵抗しようとしたが、力が入らない。彼の顔が迫り、低い声でささやく。「お前の心を覗いてやる。」彼女は恐怖に震えた。彼の手が彼女の頬を撫でると、冷たく硬い感触が伝わる。心の中で何かが破裂する音が聞こえ、香織は意識を失った。
目を覚ますと、夜の静寂と共に村に戻っていた。恐ろしいことに、自分の周囲には太一の姿が影のようにちらついていた。彼の視線は香織のすべてを見透かし、彼女の心の奥深くに潜む恐れや欲望が抉り出されていく。
香織は村人たちの不安を自らのものとして感じ取るようになった。彼女は思う。「私は、彼を知ってしまったのだ。彼の狂気を受け入れてしまったのかもしれない。」次第に、彼女の心には太一の影が深く刻まれていった。周囲の人々が彼女を避けるようになったのも当然だった。
村の社交は日々薄れていき、香織は一人で過ごす時間が増えた。彼の存在を気にしないようにしても、いつも彼の声が心の中で反響していた。「忘れられた者は、忘れられない者になる。恐れずに私の元へ来い。」
何度も夢にうなされた香織は、とうとう彼の呪縛から逃れられないことを悟った。村の人々は、彼女を恐れ、避け続け、やがて彼女もまた太一の存在に気付き、同じ運命を辿ることになった。彼女の中に潜む狂気は、いつしか彼女自身を蝕んでいった。
その後、廃屋は再び村人たちに忘れられ、香織の名前も村の言い伝えに加わった。ただ、誰もその真実を語ることはなかった。太一の影は、今や香織の中に息づいていた。彼女はかつての彼を思い出しながら、静かに夜の村を彷徨っていた。彼女たちはもう、呪縛の中で互いに響き合いながら、かつての喪失に浸るしかなかった。