鏡の中の声

暗く、寒い夜のことだった。月は雲に隠れ、風の音だけが不気味に響いていた。町外れにある古びた屋敷は、何年も誰も住んでいなかったが、最近になって夜になると中からかすかな物音が聞こえるという噂が広がっていた。


「絶対に行くな」と友人たちは警告したが、由美はどうしてもその噂の真相を確かめたかった。好奇心は猫を殺すと言われるが、彼女の探究心はそれをも凌駕していた。


「ほんの少し探検して、すぐに帰るから」


そう心に決め、由美はその夜、屋敷へと向かった。門をくぐり、サビついたドアを開けると、中は思った以上に埃っぽかった。懐中電灯を手に、彼女は慎重に進んでいく。


薄暗い廊下を歩くと、つかの間の光が古ぼけた絵画に映えた。風が通り抜ける音が耳に入り、由美は一瞬立ち止まった。何かを聞き逃してはいけないと思ったからだ。しかし次の瞬間、薄暗い鏡に映る自分の姿が、どうにも違和感を覚えさせた。自分だけではない、もう一つの影が映り込んでいたのだ。


意を決して振り向いたが、そこには誰もいなかった。ただの気のせいだと自分に言い聞かせ、再び歩みを進めると、不意に耳元で低い囁き声が聞こえた。


「ここから出て行け」


由美の心臓は鼓動を速め、冷たい汗が背中を滑り落ちる。だが、恐怖に屈するわけにはいかなかった。気を取り直し、部屋の奥へと進んで行った。


大きなリビングルームに足を踏み入れると、突然懐中電灯が消えた。闇に包まれた部屋の中で、由美は足元に何か固いものを感じた。それを拾い上げると、それは古びた日記帳だった。はたして誰のものか、なぜここにあるのか。由美はページをめくり始め、それに書かれた悲痛な叫びを読んでいった。


日記の持ち主は、この屋敷の元住人である若い女性だった。彼女は精神を病んでおり、夫に愛されないまま、孤独に閉じ込められていた。最後のページには、一つの言葉が繰り返されていた。


「自由にして」


その瞬間、部屋の中で再び囁き声が響いた。由美は恐怖心を押し殺し、声の方へと歩き出した。すると、壁には一つの古びたドアがあり、鍵がかかっていた。しかし、幾度か試みると、ついに鍵は開いた。


その奥には、狭い地下室が広がっていた。部屋の中央には大きな鏡台があり、その前には風に揺れるカーテンのように薄い布が垂れ下がっていた。由美がその布を払いのけると、鏡の中には自分の姿ではなく、若い女性の姿が映っていた。


「自由にして」


もう一度、その声が聞こえ、由美は断片的に理解した。日記の持ち主は、この屋敷に封じ込められている霊であり、自由を求めて彷徨っていたのだ。由美は鏡に向かってうなずき、その瞬間、鏡が音を立てて割れた。


しかし、それと同時に、由美の視界は暗くなり、意識を失った。


次に目を覚ました時、彼女は病院のベッドの上だった。自己矛盾する記憶に混乱しながらも、彼女は生き延びたことに安堵した。友人たちが駆けつけると、彼女は一部始終を話したが、誰も信じてくれなかった。


だが、由美は忘れられなかった。日記の中の女性の叫び声と、自分を見つめる鏡の中の目。彼女はこれからも、その屋敷で何が起こったのかを探求し続けるだろう。


そして、その夜屋敷から帰ってきた彼女には、一つだけ変わったことがあった。鏡を見るたびに、その中に映る自分以外の影が消えることは、二度となかった。


謎と恐怖が渦巻く夜、由美は新たな自分の使命を感じるようになっていった。屋敷の秘密を解明しなければ、この影は永遠に彼女を離してはくれないだろう。それは始まりに過ぎなかったのだ。彼女にとっての終わりなきサスペンスが、今まさに幕を開けたのだった。