囁きの隣人

薄暗い街外れにある古びたアパート、その一室に新しく引っ越してきた晴美は、静かな生活を望んでいた。しかし、ここでの生活は思いもよらない恐怖の幕開けだった。初めての夜、彼女は耳障りな音に目を覚ました。それは、隣の部屋から聞こえる不気味なかすかな囁きだった。


翌日、晴美は隣人について調べることにした。部屋番号は302。外見は何の変哲もない若い男性、名は浅野。晴美は彼の様子が気になり、何度か顔を合わせた際に軽い挨拶を交わしたが、彼の眼はどこか虚ろで冷たかった。


ある夜、彼女は再び隣からの囁き声に悩まされた。今度ははっきりとした言葉が耳に入った。「もうすぐ、もうすぐ来る…」その声を聞いた瞬間、晴美は恐怖に駆られた。彼女はそのまま隣の部屋に行こうと決意した。しかし、ドアをノックする勇気が出ずに時間だけが過ぎていく。


数日後、晴美は近くのコンビニで偶然、浅野と出くわした。彼は何やら考え事をしている様子で、晴美に気づくと不機嫌そうに眉をひそめた。「最近、変な夢とか見ない?」と浅野が尋ねてきた。晴美は驚いたが、彼の視線は真剣だった。


「私は昨日、なぜかあなたの夢を見たんです」と言った彼女に、浅野は微かに微笑んだ。「それなら、あなたも同じ運命を辿るかもしれないな」と言った。その瞬間、彼の目に一瞬狂気の色を感じた晴美は、恐怖を抱いて彼から離れた。


数日後、晴美は夢の中で彼を見かけた。彼が何かに怯えている姿を見た。その後、彼女はその夢と現実が混ざり合っていることに気づく。日中、彼女は隣の部屋から聞こえる声が夢の中と同じことであることに愕然とした。


ある晩、晴美が眠りに落ちると、またもや浅野の夢を見た。彼は涙を流しながら「もう終わりだ。逃げなければ…」と呟いていた。彼女は夢から醒めると、胸が締め付けられるような感覚に包まれた。そして隣室のドアに近づくと、意を決してノックをした。


「浅野さん、いますか?」と叫ぶと、返事はなかった。扉はわずかに開いていたため、彼女は恐る恐る中に入った。部屋は暗闇に包まれ、不気味な静けさが漂っていた。壁には怪しい文字や図形が描かれていた。そして、中央には小さな鏡が置かれていた。


晴美はその鏡を覗き込んだ。すると、自分の後ろに浅野の姿が映っているのを見た。彼は青白い顔で、無言で彼女を見ていた。驚きと恐怖が入り混じったが、彼女はそのまま鏡をじっと見つめた。すると、鏡の中で浅野が次第に姿を消していくのを目撃した。彼の声が響く。「逃げろ、遅すぎる…」


晴美は恐慌状態に陥り、部屋を飛び出した。しかし、すぐに気持ちが落ち着くことはなかった。次の日、彼女は街の図書館でこのアパートにまつわる噂を探り始めた。古い資料を調べるうちに、そこに住んでいた住人が次々と失踪していることがわかったのだ。それはまさに、浅野が夢に語っていた運命と同じであった。


晴美はそのことを考え、冷静になった。浅野を助けて彼とともにこの恐怖から逃れようと思ったのだ。しかし、彼に囲まれた恐怖は予想以上に深刻だった。彼女が再び隣の部屋に戻ると、そこにはもはや浅野の姿はなかった。ただ、彼が残した不気味な雰囲気だけが漂っていた。


彼女の手元の携帯電話が突然鳴った。恐る恐る画面を見ると、そこには「助けて」というメッセージが表示されていた。送信元は「浅野」と名乗られていたが、彼の番号は既に削除されていた。晴美はそのメッセージにすがりつくように、再び鏡の前に立った。


そこで彼女は、映った自分の背後に、浅野の顔が再び現れるのを見た。「来てしまったか…」彼の声はかすかに響き、晴美は反射的に逃げ出そうとした。しかし、もはや動けない。鏡の中からは、無数の手が彼女を引き入れようと伸びていた。


彼女の心は絶望感でいっぱいになった。結局、彼女は誰かを助けることはできなかった。逆に、彼女自身が囚われてしまったのだ。深い暗闇の中で、彼女は浅野と同じ運命を辿ったのだと気づく。もう逃げられない。そう、彼女もまた、失踪する住人の一人になったのだ。